【三重県】第48回全日本大学駅伝 報告

【三重県】第48回全日本大学駅伝 報告

2016年11月6日(日)晴れ。
熱田神宮を8:05にスタートしゴール地点の伊勢神宮内宮宇治橋前までの全日本大学駅伝、
三重県父母会では、三重県内の第2中継所から順に各中継所での応援を行いました。
明治大学ののぼりを立てて応援していると、いろいろな人から声がかかり、沿道では貴重な縁を結ぶこともできました。以下、主に応援風景を紹介させていただきます。

①第2中継所(コマツリフト 四日市支店前)

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  秋の空 紫紺の花と 笑顔広がる(かりん)
  秋風に 紫紺の校旗 歓声と (すずらん)

②第3中継所(海山道倉庫前)

  祖父祈る 伊勢路の孫の 晴れ舞台
  心こめ にぎるのぼりに 汗にじむ(ひまわり)

明治大学の先生とその教え子さんの明大OB青年から声がかかり一緒に声援をおくりました。熱田神宮にてまず送り出し、四日市、津、伊勢とずっと追いかけていくそうです。
また、明治のタオルを首にかけた男性に、うれしそうに「孫が走るんだ」と声をかけられました。

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明治の選手のファンだという少年のために、サインや記念写真をお願いしたら、爽やかに気持ちよく承諾してくれました。(そして、ちゃっかり自分たちも一緒に写っちゃいました。)

③第4中継所(中勢自動車学校前)

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鈴鹿中継所では、校友の男性と明治スポーツ談義に花が咲きました。選考会からでは、厳しいと言われる全日本大学駅伝ですが、来年も、明治は必ず伊勢路で襷を繋げてくれると信じています。
フレーフレー 明治!

④第6中継所 (元三雲ドライブイン前)

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神奈川の海老名から駆け付けたという方や手作りのポスターを持った明治OB(ご主人)と青山学院OBのご夫婦と合流しての応援。今年は箱根駅伝の予選会もあって、全日本との調整が難しかったのではというお話も聞けました。

⑤第7中継所(JA松阪前)

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  突っ走れ 紫紺の鼓動 秋を切る  (なでしこ)

松阪では、校友会(明治大OB)の方と父母会OBの方と合流しました。
選手が来たら、名前を呼んで応援しようということになり、「しんぺいく~ん」と合唱しましたが、しんぺい君はあっという間に駆け抜けていきました。
父母会OBの母からは、「今でも明治は、学業成績表を親に手渡しするってやってるの?あれって、とても大事だと思うわ。いくつになっても、親が子どものことを気にかけているってことが大事なのよ。」って貴重なアドバイスをいただきました。

⑥ゴール 伊勢神宮内宮宇治橋前

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  OBも 現役もいて 神迎え (うっしー)

ゴール前には、応援団、連合父母会、三重県父母会OBなど、たくさんの明治大関係者が集結していました。2015年度の三重県父母会LINEも鳴り続けていました。
「久々に明治大学のLINE、楽しいじかんでした。」
2016年度の三重県父母会LINE、本日最後の言葉を紹介します。
「駅伝って、選手の皆様が襷をつなぐだけではなくて、今日は沢山の襷が繋がって、私たちの駅伝でもあったのですね。」
「熱い思いを持った方々にお会いできて良かったです。応援、選手、関係者の皆さんお疲れさまでした。」

番外編  伊勢路の別れと出会い
①松尾芭蕉(当時46歳)の旅
俳句 蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ ( はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)
句意 蛤の蓋と身が分かれるように、私も懐かしい人々と別れ、伊勢の二見浦へと旅立って行く。
解説 1689年、芭蕉は「奥の細道」の旅から帰ってきました。終着点は今の岐阜県の大垣です。
   曽良をはじめ多くの門人が集まり、芭蕉の無事と旅の成功を祝います。
   しかし、芭蕉はすぐに伊 勢路への旅に向かいます。「奥の細道」結びの一句です。
②本居宣長「松阪の一夜」(当時34歳)
1763年、伊勢参りに来ていた高名な国学者:賀茂真淵(67歳)の宿(松坂)にアポなしで訪れ、弟子にしてもらいます。「古事記」の研究をしたいと伝えると、「よい所に目をつけた。大いにやりなさい」と励まされたそうです。以後は文通にて指導を受けました。結局、直接会ったのはこの時一回かぎり、そして35年後、宣長の「古事記伝」は完成しました。